【盛岡、サンマの塩たたき】
秋の盛岡八幡宮に詣でようと歩く参道角の飲食ビル「酒道場 狸屋敷」は酒徳利と御通帳を持った巨大な狸が外壁の三階まで半立体で張り付いて迫力だ。解説板に〈この大狸は盛岡八幡宮でお清めの祈祷を受けた招福狸です。触れると運勢が開けるといわれております)として〈徳利(飲食)・通帳(世渡り)・金玉(お金)・尻尾(終わり良ければ万事よし)〉と御利益が列記される。どんぐり目が愛嬌の巨狸だが、惜しいかなパイプ足場を立てて取り壊しのようだ。最後の功徳をいただくべく背を伸ばして金玉をなでた。
高さ八メートルの八幡宮大鳥居をくぐった左右は長大な馬場だ。森岡は「南部駒」の名産地で、八万通りに〈右馬検場 左盛岡八幡宮〉の道標があった。馬検場は馬の競りを行う所だ。多くは軍馬に供出され、明治九(1876)年、明治天皇東北御巡幸のおり県産馬御台覧もその故だろう。左右目測一キロメートルはありそうな馬場は毎年九月「南部流流鏑馬(やぶさめ)」が行われる。
大鳥居をくぐった盛岡八幡宮の広い境内左右に、見上げる高さの立派な青銅灯篭一対が立つ。
文化九(1812)年製。上から宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎・基壇で成り、円形の笠は蕨手の反り稜線、火袋は鳳凰・桐花紋透かし、基壇は牡丹・唐獅子・銘文を陽鋳。こういう名称や意味に興味のある私は解説と実物を照らし合わせ見て納得だ。見どころは中台の十二支浮き彫りで、鼠に瓜、牛に桜、虎に竹、兎に葦、蛇に菊・桔梗、馬に松、羊に蘇鉄、猿に柿、鶏に牡丹、犬に南天、猪に瀬波、などの動きのある瓢逸味は、職人の楽しんだ様子がとてもいい。
〈霊水 霊境の湧水は霊応あらたかにして信心する人の罪穢を祓い霊威を垂れ給う〉とある手水舎は巨大な自然石の刳り貫きで、明治九年、明治天皇奥羽巡幸の際、御休所・金子七郎兵ヱ邸のあった「水堀石」を御眼にとめて由来を御下問、後の二十一年八幡町の篤志者が献納したとある。石裏に彫ったその名〈奉納 貸座敷 料理店 芸妓 い組〉がいい。
幅広い石段を上って本社殿前に立った。唐破風に千鳥破風を重ねて左右に長く、朱と金が豪華だ。
ぱん、ぱん。
頭を垂れ、柏手を打つとおちつく。私の家は神道ということもあるが、宗教色よりも氏神色のつよい神社は訪れた地への挨拶だ。振り返った境内の紅葉は鳥居の朱よりもなお赤く、ここは案外に高い場所で盛岡の町が一望だ。
境内にはいくつかの小神社も祀られる。「高倍神社」の祭神・磐鹿六雁命は第十二代景行天皇より膳臣(天皇の料理番)を命ぜられ宮中の食礼法の源を築き、調理生業の守り神と解説される。奉納額の、雫石調理師会一同、菜園調理専門学校、盛岡グランドホテル総料理長、料亭喜の字、焼鳥ゆう助、宮田醤油店などに、私の好きなそば屋「直利庵」もある。居酒屋の本など書く私も奉納すべきか。
「健康神社」は〈霊験 肺神・肝神・腎神・心神・癌病・中風病・脾神〉と続き〈人の一生は幸福でなければならない。幸福な生活を営むには、健康第一である。即ち幸福の基本は、健康であることである〉と誠に御もっともだった。


境内いちばん奥にひっそりと、しかし敬意を表すように簡素な門がしつらえられて、米内光政の銅像が立っていた。
〈米内光政は盛岡の人 若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる 昭和二十年八月太平洋戦争の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動 平和の聖断を奉じて 克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである 逝去十三年 至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ 昭和三十五年十月 後進 小泉信三〉
台座碑文の小泉信三は現天皇の皇太子時代の教育掛責任者として新時代の帝王学を説いた。現天皇の平和主義の根源はこの人にあったか。
解説に、米内は昭和十二年に海軍大臣に就任し陸軍の主張する三国同盟に反対。天皇の信頼厚く昭和十五年には岩手出身者三人目の総理大臣につくも陸軍の反対に逢い半年後に退任。太平洋戦争末期には四期めの海軍大臣として終戦に尽力。生涯反対主義をつらぬき、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最後を見届けたとある。
その像に私ははげしく心をうたれた。口を結んだやや心配気な表情には、いま目の前で進んでいる不義を止めねばならぬ決然たる意識がみなぎって静かで、他の全身を特徴なく仕上げたのがより表情を印象づけている。じっと見るうちに、今現在の軍国化暴走総理大臣を思いだしたくもないのに思いだしてしまった。亡国者めが。
盛岡の夜の繁華街・菜園の居酒屋「ちろり」に座り、地酒「月の輪」を傾けた。品書きに名物とある〈サンマの塩たたき580円〉は、皮を引いた三枚下ろしに塩を振ってバーナーで焼き、そぎ切りしたもので、切り面の赤が食欲をそそる新機軸の傑作だ。今年の七月に開店したばかりだそうで若々しい雰囲気がいい。
「初雪はいつごろ?」
「十一月半ばですかね、岩手山は一回降りました」
そうかあ。


【鱈の白子の、たちこそば】
盛岡の蕎麦屋「直利庵」は創業130年の老舗。わんこそば・冷麺・じゃーじゃー麵を「盛岡三大麺」と言う。直利庵はわんこそばの座敷もあるが十五種もある〈季節の変わりそば〉が楽しみだ。去年の秋いただいた〈鮎そば〉はすばらしかった。
さて今日は、お〈たちこそば1250円〉というものがある。
「鱈の白子、たちこです。今年は二週間ほど早いです」
ものやわらかな女将は紺着物に白足袋、たすき、ではそれを。
届いた大丼は縁すれすれまでなみなみのおつゆに、全く形に乱れのないこんもりと完全形の特大生白子が五つ鎮座。雪のような白が、つゆに沈む下半分は薄い茶色に透け、笹切りの太葱が周りを囲む。まずおつゆ。
すー・・・。
醤油味はたいへん薄く上品。白子は箸では切れず、一個を持ちあげるとずしりと重く、ままよかとかぶりつく。煮え過ぎず、つめたいままでなく、淡い甘みをもってとろーりと口の中で溶けてゆくのは夢のようだ。下支えするように沈む蕎麦はちっとも伸びてゆかない。取り巻く太葱は、妖艶爛熟の白子を若侍のようにきりりと支える。白子を三個たいらげたところで赤い粉一味唐辛子を振ると、しずしずたる舞に一喝、カーンと鼓を打ったように劇的に変化して次第に額に汗が。
無我夢中。つゆ一滴残さず完食すると体がぽかぽかしてきた。白子は鱈のオスの精巣、男に男の精。さもありなん。
「いかかでしたか?」
「なんだか精がつきました」
「あら、ほほほほ」
うれしいやりとりで店を出た。
昨日、米内光政の像にこころ打たれた私は、同じ盛岡出身・原敬の墓所を訪ねることにした。
北上川に近い大慈寺の広い石段上の山門は竜宮城のような大陸風横門で、白く二股にかまえた下半分は白黒のなまこ仕上げ。上は欄干を巡らした舞台風。本殿は雄大な二層瓦屋根左右に鯱鉾、中央に宝珠をのせ「大雄賽殿」の大扁額を上げてたいへん立派だ。墓地口の〈原敬墓所〉説明を読んだ。
安政三(1856)年に生まれた原敬は、わが国初の平民宰相として第十九代総理大臣に就任。清廉潔白、自由と平和を愛し、藩閥、軍閥、官僚などの特権階級と対決しながら明治憲法下で政党政治を実現。大正十(1921)年東京駅で暗殺された。その九か月前にしたためていた遺書は、
〈一・死去の際位階勲等の昇叙は余の絶対に好まざる所なれば死去せば即刻発表すべし  一・東京にては何等の式を営むに及ばず、遺骸は盛岡に送りて大慈寺に埋葬すべし 一・墓石の表面には余の姓名の他戒名を勿論位階勲等も記すに及ばず〉
その通り、囲まれた墓所の墓石は人の立つ腰ほどの高さもなく、墓名は「原敬墓」のみ。前に置いた線香の炉にかぶせた白木屋根がわずかに丁寧に感じ、隣には全く同じ形で妻の墓石も立つ。大樹の黄色落葉が散り敷いた中、これはたって詣るわけにはゆかず鞄を脇に置き、しゃがんで手を合わせた。立派な寺の一隅の質素な墓は私を感銘させた。


【秋、錦繡の八寸】
原敬の墓所を訪ねて知った奥州街道の古い町並みを気に入り、今日も歩いた。
市内から南へ向かう街道は、長大な明治橋で盛岡はここまでの雰囲気になる。雫石川、中津川、簗川(やながわ)がすぐ上で合流した大河・北上川は架橋が難しく、まず小舟を上に板を渡した浮船「舟橋」が造られたのち、初めて木橋が架けられた〈明治六年造〉の石柱が念願叶った喜びのように川岸に立つ。しかしその後もよく流され、かって私は台風の濁流が飲み込まんばかりの橋を前に、向こう岸の父を訪ねて渡るべきか逡巡(しゅんじゅん)する幼い娘を『居酒屋かもめ唄』という本に書いた。
全長150メートルの今の鉄橋のいくつもの橋脚は橋幅よりはるかに広い礎石で固められ、間の流れはごうごうと音をたてる。橋中央からは遠く岩手山を望み、都会盛岡といえども山深い東北の自然の中の小さな町に感じられる。
あたりは新山河岸と呼ばれ御番所、舟宿、御蔵が並ぶ北上川舟運の要衝となった。市有形文化財の米蔵に、建物好きの私は〈建造江戸時代後期土蔵、平屋建て、屋根は桟瓦葺き切妻、外壁は大壁式白漆喰、腰は花崗岩石積み、入口は観音開き、窓は外開きの土扉で開口部に鉄格子金網〉などの説明を実物と確認しながら読んでいった。
そこから足のままに歩いた屋敷「南昌荘」は「みちのくの鉱山王」といわれた盛岡の実業家・瀬川安五郎が明治十八年頃に建て、原敬が渡欧準備に一ヶ月逗留したと説明がある。「南昌荘」大扁額の玄関や、いやに廊下の広い屋敷、強大な自然石を転がしたような池泉回遊式庭園は鉱山王らしくというもの変だが、どこか豪放だ。資料の筆跡「恵比寿講の祝」は傍らに荒川(鉱山)銀判を山積みした瀬川安五郎が座長だ。東北一の繁華街を言われた秋田・川反通りの賑わいは鉱山景気によると聞いていたが、この人だったか。その秋田川反の屋敷、天皇巡幸に用意した行在所の写真もある。屋敷は四代にわたり持ち主が変遷。最後は売りに出たがマンション建設などで消失するのを危惧した盛岡市民生活協同組合(現在のいわて生協)が共有財産として購入、その後一般公開になったという経緯がいい。盛岡は市民の文化意識が高いところだ。
さらに歩き中津川の「下の橋」に出た。石碑に歌と解説がある。
城あとの古石垣にゐもたれて聞くとしもなき瀬の遠音かな 若山牧水
教室の窓よりにげてたた一人かの城址に寝に行きしかな  石川啄木
〈啄木が晩年最も心を許し合った友人若山牧水は盛岡を三度訪れており、啄木がこよなく愛し歌った不来方城址で啄木を偲びながら数首詠じておりますーーー〉
その先の新渡戸稲造生誕地は小公園になり、奥に深椅子に座して片手を顎に黙考する等身大銅像が置かれる。文久二(1862)年、盛岡に生まれた新渡戸は東西文明融合の「太平洋のかけ橋たらん」と欧米に活躍。国際連盟事務局次長としての公正な言動は「連盟の良心」といわれ、かの地で没したとある。複雑なポーズによどみない彫刻作家は朝倉文夫。めがね奥のまなざしはまさに「慈顔」だった。


旧奥州街道の北上川際はかって水運を司る役所・惣門が置かれた。隣の八幡町・松尾町は料亭街で老舗「喜の字」をはじめ、今は現役ではないらしい角の大館は半月窓、水車板の手すりなどが粋だ。割烹「惣門」は一階二階の座敷中心だが奥の台所口の寄り付き五席カウンターが一人で飲める。
右上隅に飾る板書は〈平成十一年九月十六日 盛岡八幡宮 神事流鏑馬当り的 家内安全・商売繁盛・心願成就・祝惣門〉。一尺四方の平板を菱形にとり、心願成就の「就」のところに白羽の矢が発止と的中する。流鏑馬奉行(進行審判役)の人が当店の改装祝に贈ったもので「祝惣門」は八幡宮宮司の筆になるそうだ。
正面長押に飾る総螺鈿(らでん)の長槍がみごとだ。入ってきた玄関に置いた黒光りする大砲は南部鉄で、砲身の太いところで径およそ五寸。〈萩野流五目玉 大砲 総長寸三尺四寸五分 武蔵國足立郡川口宿 鋳造(ちゅうぞう)師益岡安五郎 録鋳南部藩〉とある。
地酒「鷲の尾」のお燗があらわたに沁みわたった。冬の盛岡に来てよかったなあ。こうした旅のひとり酒が一番だ。
届いたお通し八寸に目を見張った。帆立の子の粒が寄せ物、海苔と山葵のたれをかけた蒸し海老、牛蒡の牛肉巻、海老しんじょを詰めて揚げた椎茸、貝殻風の筋目包丁入り帆立蒸し、あるく炙ったイカに焼海苔を抱かせて明太子に巻いたもの、鰻の玉子焼き風。
入念な手仕事が、わずか十センチほどの皿に紅葉を添えてぎっしりと、まさに錦繍(きんしゅう)ここに極まり、黒瓢(くろひさご)型小鉢で季節の芋の子おろし和えが加わる。
「これはみごとですねえ」
「主人が毎日、あるものでちょこちょこ作るんですよ」
女将さんがにっこりする。「私は海老をパセリで巻いたのが好き」と言ったら「おまえのために作ってるんじゃない」と叱られたと笑うのがいい。これ目当てに毎日来る人がいて意地でも毎日変えるそうだ。このカウンターに座るのは三度目だが、いつも料理の腕の立つ人だなあと感心していた。
玄関の額の盛岡城の絵を誉めると「あれは主人の父の作です」と言われて驚いた。
義父・鈴木良勇氏は満州出征後にシベリア抑留から帰られ、三十年ほど前に亡くなられたが、背筋のびしっとした怖いような方だったという。設計の仕事のかたわら、盛岡城再建運動のため様々な文献を調べ〈盛岡城 奥州陸奥之國 南部弐拾萬石之居城 藩城下町絵詞〉の絵に表した。
色紙五枚を横につなげ、右に中津川「下の橋」、中央に石垣の大手門から天守閣、隅櫓などが重なり、残雪の姫神山、岩手山を遠望する大作だ。季節は早春。右の橋たもとはしゃがんで釣り糸を垂れる侍を同僚と童子が見守り、橋上から蘭学医風も見る。川を行く米俵を積んだ舟は一人は棹を押し、一人はのんびり煙管で一服。川面の子鳥たちを親鳥が守る。
考え抜かれた構図、川原の表情、樹々の描き分けや着彩、城郭の精確、人々を配した温かさ。親しみやすい画力はじつにすばらしく、最後に参考図会を列挙〈昭和五十一年三月吉日〉と落款を押す。さらに別枠で御蔵、御菜園農地、天守閣、筋違橋、吹貫馬場などの註を施し〈当時、城の周囲は杉松の樹立ちで覆われ、城郭の全貌を望見することが出来なかったものと思われる、この絵詞は、それ等前面の樹木を疎らにすることに依って古図による城郭の形態と配置を明らかにしたものである〉と結び、決して自由な想像図ではないことを記す。
研究に裏付けられた雄大な構想に温かさを盛り込んで、ありし日の南部藩を描いた畢生(ひっせい)の作品にしばし見入った。


盛岡へは行ったことがありませんが、偶然、今テレビで放送(再放送)されて録画してあった「ぶらり旅」で盛岡編を見ました。
櫻山神社前の横丁・・・残って良かったですね!流石太田先生。でした。
盛岡のある岩手県へは一度、気仙沼に商談があって行きましたが、まさしく東日本大震災のあった前の年の年末。同じく偶然、地震・津波があったらここが避難所になるように造りましたと商談先の塔のある建物を紹介してもらっていたところが・・・まさしく避難所となり、そこで働いていた従業員さんたちは無事だったそうです。苦い(辛い)思い出です。
2011年3月11日、あれからもう10年がすぎました。早かったような、かなり昔となってしまったような・・・あれから、いろんなことがありました。
当時(前職)、池袋・サンシャイン88に本社があり、丁度会議の最中に大きな揺れが!かなり長い時間続いて・・・発生した場所を後で聞いてびっくり!東北で起きた地震の揺れが東京のど真ん中でもしっかり感じました。最初で最後にしたい「大地震」の揺れ・体験でした。あれからもう11年か・・・。
岩手・盛岡には、雪のないころに一度訪問してみたいと思います。
麺好きな私は、わんこそば・冷麺・じゃじゃ麺を盛岡三大麺に非常に興味があります。
創業130年の老舗蕎麦屋「直利庵」で、季節の変わりそばもいいな!美味しそうです。
雫石川、北上川、中津川の三つの川が市の南で合流。岩手県庁などのある中心部は北上川と中津川にはさまれた三角地あたりで宿を探し、中津川を超えて盛岡八幡宮に通じる八幡町の古い地区も歩いてみたい・・・そんな気持ちにさせられた盛岡でした。